無学無才日記

家なし妻なし金なし暇なし。重ねた年月で身についたのは腹の肉だけ。迫る不惑に慄然とし眠れぬ夜を今日も過ごす。

「シティーポップ」と「大学生」と「おっさん」と

この「ブルー・ペパーズ」とか「あっぷるぱい」とか、近頃の大学生はけしからん。シティーポップの系譜と伝統をしっかり消化してデビューアルバムからハイクオリティーな曲を書いてくる。

まさに、10代の頃に都市と恋愛に憧れてラジカセの前で胸を痛め聞いていたシティーポップが鳴っている。何食って育てば、若くしてこんな曲かけるのかしらね。

カサカサの中年ハートが、二度と、ときめくことはなくても、心の底の切なさの搾りかすみたいのが少し動いたような動かないような6月の夜。


ブルー・ペパーズ / 6月の夢

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あっぷるぱい / カルピスソーダの夏

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アラフォーよ大志を抱け!心の奥の「磯野」を除霊せよ!

磯野波平が54歳なのは有名な話だが、2017年の日本では、佐藤浩市が56歳を迎えた。

仮に、二人が縦社会の強固な体育会の先輩後輩だったならば、同窓会でコンビニに「ウコンの力」を買いに走らされるのは「佐藤浩市」ではなく「磯野波平」となる。

「おいっ!磯野!!」

二人の外見は、あくまでこんな感じではあるが。

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波平は、当時のごく平均的な54歳をモデルにしているのだろうが、今の感覚で見ると心身ともに老け込みすぎている。毛髪の多寡を別にしても。

サザエさんが新聞上で連載を開始したのが1946年。それから時は流れ、世の中は劇的に変化を遂げた。71年前に生きた人と、今を生きる人を比べると、10〜20年ほど加齢の速度が遅くなっているはずだ。

にもかかわらず、立派な社会人たる者40ぐらいまでには、家庭を持ち子を育て、仕事で何かを成し遂げ、後続を導く立場として、落ち着くべきであるという社会的な風潮がある。

この通念は、戦後の復興期、そして終身雇用を前提としていた高度経済成長期の昭和からほとんど変わっていない。つまり「磯野」が54歳だったあの夏と少しも変わってないのだ。

「磯野」の時代の外見には違和感を覚えるのに、「磯野」の時代の価値観に違和感を覚えないのはなぜだろう。

私たちは60で引退をすることなど許されない。年金の受給開始時期はどんどん後ろに下がり、80歳まで下がるという話もある。一方、医療技術の向上により、平均寿命100歳時代が訪れるという話もある。

そうなると、死ぬに死ねず休むに休めず、40歳の段階だと、短くともあと40年は働かなければいけないことになる。現代における不惑とは、人生のゴールがまだまだ遠くにあり、道半ばにすら来ていないスタート地点に近い場所なのだ。

つまり、「アラフォー」とは、新しい夢を描き、汗を流し、まだまだガムシャラに活動する時期ではないだろうか。「磯野」が54歳の平均値だった時代の20才のように。

こんなに時代が変化しているのに、私たちはいつまで「磯野」的な昭和の亡霊に、人生を縛られているのだろう。「磯野」の亡霊なんて、なる早で除霊すべきなのだ。

アラフォーよ、もっと自由に、もっとガムシャラに生きよう。アホな夢を描き、もっと無茶をしよう!額に汗かき、不惑を越えても惑い続けよう。

アラフォーよ大志を抱け!!

遠い日のきらめきよ

床に横たわり、眠れぬ夜が、眠れぬ朝に変わる時、遠い日からこぼれたきらめきが脳を汲々と締めつけ、気が触れてしまいそうな気持ちになる。


無為に過ごした怠惰な日々が、日差しの熱量、肌に触れた風まで思い起こせるような圧倒的な解像度で美しく立ち上がる。


不可逆な美化された存在を見る切なさ。切なさは、なぜ希死念慮をいつも喚起させるのだろうか。


殴り書きのテキストを吐き出し、もう少し眠れないか試みてみる。新しい今日が始まる前に。




アラサーからの「美しさ」と「若さ」について

女性の「美しさ」の意味合いが限定されすぎていると最近よく思う。生物学的な「若さ」が、女性の「美しさ」の大部分を占めるのはあまり健全ではない気がするのだ。

 

平均寿命が40歳の時代ならいざ知らず、人生80年時代に女性の「美しさ」=「若さ」のピークを20代あたりに設定するのはあまりにも不幸だ。残りの60年を長い撤退戦として押し付けられるとすれば、それは何というひどい人生なのだろう。

 

まず、男たちが悪いだろう。それは間違いない。若くて、目が大きく、胸が大きければ(個人の好みの違いはある)、宝のように扱うその節操の無さ。セックス、出産を前提とした場合、その選択にも一定の合理性はあるのだろう。

 

ただ、関わりを持つ全ての女性と、肉体関係を持つわけでもなく、ましてや出産へと至るわけでもない。多様な生き方がある現代社会で、女性という人物の評価として「若さ」が占めるウェイトが突出して高いのはナンセンスだ。

 

基本的に女性との交流の目的をセックス、あるいは性愛を下敷きにした何かにしか、設定できない男性が多いのだろう。長い人生を共に歩んでいく人類の半分である友人たちを、その様な眼差しでしか評価できないとすればとても悲しいことである。

 

もちろん私にだって若い女性は魅力的に映る。惹かれることもあるだろう。ただ、それは魅力の一部としてだ。新鮮なブドウジュースが常に正義ではなく、熟成したワインの良さを知る人間でありたい。刺身だけでなく、煮魚や、乾物、鰹節の良さを(disってるわけではない…)知る人間でありたい。そういう多様な評価軸を常に持っていたいと思っている。

 

そして、その男子の刺身中毒というか、味覚の幼さを、女性側も実は補完していると思うのだ。シワやシミの1つや2つに悲しそうな顔をしないで欲しい。祈るように高い化粧品を買わないでいい。無印で充分。いいじゃないかシワがあっても。人として生きた年輪じゃないか!お肌の曲がり角なんか高速ドリフトで曲がってしまえばいいのだ。

 

美魔女なんてのは最たる例で、「わか〜い」「きれ〜い」なんて褒められても、結局それは「若さ」の模造品でしかなく、しかもその「若さ」なんてのはボーッと十数年生きていればある時期、皆に手に入るありふれた属性でしかないわけだ。それを時の流れに逆らい、宇宙に凹みをつくるような気合いで手に入れる。その努力と意思は、手放しでリスペクトするが、皆が皆、右へならえで「若さ」を追い求めるのはいびつだと思うのだ。彼女たちはある種のアスリートだ。

 

イチローは偉大なアスリートだが。イチローの凄さをみて、老若男女がバットを買って素振りを始める世の中は奇妙だ。野球がうまいのはひとつの価値でしかない。若さも、またひとつの価値でしかない。

 

もし、誰か男性に「お若いですね」と言われた時は、すぐに喜ばずに改めて考えて欲しい。こいつは性的な目線で私を評価しているだけではないかと。心の中で舌なめずりしながら、「ワンチャンあれば、パツイチやりたいです!」を文化的に表現しているだけではないのかと。もちろん、あなたもパツイチやりたいのであれば、win win で、シャル ウィー  ダンス!すればよいだけなのだが。

 

何というか、男女ともに時代に押し付けられた価値でなく、もっと多様な価値でお互いを評価できるようになると、生きやすい世の中になるのにと思う。少なくとも私の周りのアラサー、アラフォー女子には歳を重ねる度に気が重くなる様な価値観で生きて欲しくないのだ。年を重ねるたびに美しくなる可能性がどんどん広がる。(ただし、若さは遠のく。それが何だ!だまれ小僧!)そういう世界観で日々を過ごして欲しいなと思っている。

 

死ぬ前にこそ一番美しく。数十年後、シワシワでシミのたくさんある美しい女性になっていてください。その時は私があなたを誘いましょう。シャル ウィー ダンス!

 

 

世界の形と自分の形

どんな世界を信じるか、どんな世界観を持って日々を生きるか。その事に大きく人生は左右されるのではと考えた。寒い冬の夕方。日が沈む前の美しい時間の中で。

 

例えば、天動説を信じる船乗りは、遥か遠く西へと航海するのを恐れただろう。穏やかな波や暖かな日差しですら災厄の予兆と解釈して。そこに、もし地動説を信じる船乗りが乗っていたなら、同じ日差しを安らかな気持ちで存分に楽しんだだろう。

 

穏やかな日差しと丸い地球がそこにあるだけで、二者の違いはどんな世界の形を持って生きているかそれだけなのだ。

 

果たして自分は間違った世界観を持って生きていないだろうか。日々感じる心のしこりのような不快感は、きっとどこかで天動説を信じているからなのだと思う。

一年の計は元旦にありなんて言わないよ絶対

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正月もあけ、明日から仕事初め。休み中にやると約束した手つかずのいくつかの物事が気持ちを重くする。そんな自分を置いて時間だけは規則正しく流れていく。

 

冬休み最終日の就寝予定時間まで残り5時間というところ。ギリギリまで宿題をやらない性格は40年近く生きても治る気配はない。

 

今年は夢と希望を持たない一年にしたい。型にとらわれず、できる限りたくさん失敗してみる。無。無になっていく。無職も辞さないそんな姿勢で。というわけで今年の抱負は流動的なままで良しとする。

 

はち切れそうなお腹の中のカレーライスがもう少し落ち着いたら、その隙間にプリンを流し込もう。そしてNetflixで海外ドラマでも見て、残りわずかとなった冬休みを後悔とともに締めくくるのだろう。

 

そんなつまらないくだらない自分を布団は黙って優しく包むだろう。布団はいつだって優しい。

 

こうして2017年が粘度のある怠惰さとともに代わり映えもせず始まろうとしている。