無学無才日記

家なし妻なし金なし暇なし。重ねた年月で身についたのは腹の肉だけ。迫る不惑に慄然とし眠れぬ夜を今日も過ごす。

アラフォーよ大志を抱け!心の奥の「磯野」を除霊せよ!

磯野波平が54歳なのは有名な話だが、2017年の日本では、佐藤浩市が56歳を迎えた。

仮に、二人が縦社会の強固な体育会の先輩後輩だったならば、同窓会でコンビニに「ウコンの力」を買いに走らされるのは「佐藤浩市」ではなく「磯野波平」となる。

「おいっ!磯野!!」

二人の外見は、あくまでこんな感じではあるが。

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波平は、当時のごく平均的な54歳をモデルにしているのだろうが、今の感覚で見ると心身ともに老け込みすぎている。毛髪の多寡を別にしても。

サザエさんが新聞上で連載を開始したのが1946年。それから時は流れ、世の中は劇的に変化を遂げた。71年前に生きた人と、今を生きる人を比べると、10〜20年ほど加齢の速度が遅くなっているはずだ。

にもかかわらず、立派な社会人たる者40ぐらいまでには、家庭を持ち子を育て、仕事で何かを成し遂げ、後続を導く立場として、落ち着くべきであるという社会的な風潮がある。

この通念は、戦後の復興期、そして終身雇用を前提としていた高度経済成長期の昭和からほとんど変わっていない。つまり「磯野」が54歳だったあの夏と少しも変わってないのだ。

「磯野」の時代の外見には違和感を覚えるのに、「磯野」の時代の価値観に違和感を覚えないのはなぜだろう。

私たちは60で引退をすることなど許されない。年金の受給開始時期はどんどん後ろに下がり、80歳まで下がるという話もある。一方、医療技術の向上により、平均寿命100歳時代が訪れるという話もある。

そうなると、死ぬに死ねず休むに休めず、40歳の段階だと、短くともあと40年は働かなければいけないことになる。現代における不惑とは、人生のゴールがまだまだ遠くにあり、道半ばにすら来ていないスタート地点に近い場所なのだ。

つまり、「アラフォー」とは、新しい夢を描き、汗を流し、まだまだガムシャラに活動する時期ではないだろうか。「磯野」が54歳の平均値だった時代の20才のように。

こんなに時代が変化しているのに、私たちはいつまで「磯野」的な昭和の亡霊に、人生を縛られているのだろう。「磯野」の亡霊なんて、なる早で除霊すべきなのだ。

アラフォーよ、もっと自由に、もっとガムシャラに生きよう。アホな夢を描き、もっと無茶をしよう!額に汗かき、不惑を越えても惑い続けよう。

アラフォーよ大志を抱け!!