無学無才日記

家なし妻なし金なし暇なし。重ねた年月で身についたのは腹の肉だけ。迫る不惑に慄然とし眠れぬ夜を今日も過ごす。

アラサーからの「美しさ」と「若さ」について

女性の「美しさ」の意味合いが限定されすぎていると最近よく思う。生物学的な「若さ」が、女性の「美しさ」の大部分を占めるのはあまり健全ではない気がするのだ。

 

平均寿命が40歳の時代ならいざ知らず、人生80年時代に女性の「美しさ」=「若さ」のピークを20代あたりに設定するのはあまりにも不幸だ。残りの60年を長い撤退戦として押し付けられるとすれば、それは何というひどい人生なのだろう。

 

まず、男たちが悪いだろう。それは間違いない。若くて、目が大きく、胸が大きければ(個人の好みの違いはある)、宝のように扱うその節操の無さ。セックス、出産を前提とした場合、その選択にも一定の合理性はあるのだろう。

 

ただ、関わりを持つ全ての女性と、肉体関係を持つわけでもなく、ましてや出産へと至るわけでもない。多様な生き方がある現代社会で、女性という人物の評価として「若さ」が占めるウェイトが突出して高いのはナンセンスだ。

 

基本的に女性との交流の目的をセックス、あるいは性愛を下敷きにした何かにしか、設定できない男性が多いのだろう。長い人生を共に歩んでいく人類の半分である友人たちを、その様な眼差しでしか評価できないとすればとても悲しいことである。

 

もちろん私にだって若い女性は魅力的に映る。惹かれることもあるだろう。ただ、それは魅力の一部としてだ。新鮮なブドウジュースが常に正義ではなく、熟成したワインの良さを知る人間でありたい。刺身だけでなく、煮魚や、乾物、鰹節の良さを(disってるわけではない…)知る人間でありたい。そういう多様な評価軸を常に持っていたいと思っている。

 

そして、その男子の刺身中毒というか、味覚の幼さを、女性側も実は補完していると思うのだ。シワやシミの1つや2つに悲しそうな顔をしないで欲しい。祈るように高い化粧品を買わないでいい。無印で充分。いいじゃないかシワがあっても。人として生きた年輪じゃないか!お肌の曲がり角なんか高速ドリフトで曲がってしまえばいいのだ。

 

美魔女なんてのは最たる例で、「わか〜い」「きれ〜い」なんて褒められても、結局それは「若さ」の模造品でしかなく、しかもその「若さ」なんてのはボーッと十数年生きていればある時期、皆に手に入るありふれた属性でしかないわけだ。それを時の流れに逆らい、宇宙に凹みをつくるような気合いで手に入れる。その努力と意思は、手放しでリスペクトするが、皆が皆、右へならえで「若さ」を追い求めるのはいびつだと思うのだ。彼女たちはある種のアスリートだ。

 

イチローは偉大なアスリートだが。イチローの凄さをみて、老若男女がバットを買って素振りを始める世の中は奇妙だ。野球がうまいのはひとつの価値でしかない。若さも、またひとつの価値でしかない。

 

もし、誰か男性に「お若いですね」と言われた時は、すぐに喜ばずに改めて考えて欲しい。こいつは性的な目線で私を評価しているだけではないかと。心の中で舌なめずりしながら、「ワンチャンあれば、パツイチやりたいです!」を文化的に表現しているだけではないのかと。もちろん、あなたもパツイチやりたいのであれば、win win で、シャル ウィー  ダンス!すればよいだけなのだが。

 

何というか、男女ともに時代に押し付けられた価値でなく、もっと多様な価値でお互いを評価できるようになると、生きやすい世の中になるのにと思う。少なくとも私の周りのアラサー、アラフォー女子には歳を重ねる度に気が重くなる様な価値観で生きて欲しくないのだ。年を重ねるたびに美しくなる可能性がどんどん広がる。(ただし、若さは遠のく。それが何だ!だまれ小僧!)そういう世界観で日々を過ごして欲しいなと思っている。

 

死ぬ前にこそ一番美しく。数十年後、シワシワでシミのたくさんある美しい女性になっていてください。その時は私があなたを誘いましょう。シャル ウィー ダンス!